2016年, 9月

幻の車、童夢―零とは何・・?

童夢―零・・。何・・?

1978年第48回スイスのジュネーブ・モータショー。

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E5%A4%A2-%…

 

 

展示会場の片隅に置いてある車が、人々の目を釘付けにしている。

このスーパーカーはどこの国のどこのメーカーだ!?

 

その驚きのもとになったのは、京都のあるメーカーだったのです。

 

市販の予定もない車ですから、販売もされる車かもわかりません。

それなのに、ブルネイ王室やジャッキーチェン、

野球のレジャー・ジャクソンというメンバーが予約オーダーを

したのです。(ウィキ参照)

 

私も、ニュースを聞いて、載っている本等を探しました。

待ってやっと出た本を見て、その車の凄さを知りました。

 

まずその低さです。

 

当時は、車で低いというだけでスーパーカーというイメージが

ありましたから、その数字を見てえ~っという感じでした。

 

その当時では、アメリカで1000mmという車があったということで、

980mmという1mを切った高さのスーパーカーに仕上げたのです。

 

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http://blog.livedoor.jp/you_stupid/tag/%E7%AB%A5%E…

 

ですから、世界一低い車となったわけです。

 

それを造ったのが、「林みのる」という

レーシングカー・コンストラクター「マクランサ」を経営して

いた人です。

 

その人の従兄弟が、ハヤシレーシングのホイールで有名な

「林将一」という人で、ホイールで作った資金をもとにプロジェクト

が出来上がったのです。

 

その計画から、1年3ヶ月の1978年初頭に童夢―零が完成

したのです。

 

そして、その会社が「童夢」ということなんです。

 

1976年から始まったこのプロジェクトのスタッフも、

時間の限りを尽くして制作にかかわったということで、

嫁さんに逃げられたという方も4人ぐらいいたという、

何と厳しい戦いだったのだろうと同情の念を抱きましたね。

 

ちょうどスーパーカーブームが下火になるのと合わせて、

排ガス規制が厳しくなり、「零」にとっても逆風の船出であった

わけです。

 

が、その反響は、子供のグッズだとか、ラジコン、プラモデル等

の関連商品のヒットで車以外のものでの収入が大きかったと

いうことです。

 

ただ国内の環境も厳しく、当時の運輸省も受け付けてもくれない

という事態が待っていたのです。

 

危機を感じたスタッフは、アメリカに法人を造り、許可申請に

奔走したということです。

 

そうして出来上がったのが、童夢P-2という車です。

その後も、市販に向けた戦いをつづけたのですが、残念ながら

市販はされなかったのです。

 

それでも、国産初のスーパーカーブームを作ったということで、

今でも大変人気があるようです。

ラリーのクワトロって知っていますか・・・?

ドイツの自動車メーカー、アウディのクワトロですね。

 

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http://alphawiki.net/gran-turismo5/index.php?%A5%A…

 

アウディの車を見ると、顔の真ん中に輪が4つありますが

フォー・シルバー・リングス・エンブレムという物です。

 

そのリングは、左からアウディ・DKW・ホルヒ・ヴァンダラー

の4社を表すものなのです。

 

第一次世界大戦後のドイツは、世界恐慌の吹き荒れる中で、

経営を維持していくことが厳しくなっていたのです。

 

その時に、お互いの得意とする高級車・中級車・大衆車・

小型車などを協力し合い、生存をかけた、「自動車連合」

という意味の民族系メーカー「アウトウニオンAG」という

自動車会社を作ったのです。(ウィキ参照)

 

その後、厳しい経営もあったのですが、アウディを復活させたのです。

 

1970年代になって、ポルシェのレーシングマシンの 開発部門

にいたフェルディナン・ポルシェの孫、 フェルディナン・ピエヒ

迎えて、本格的なレース参加と技術開発に成果を上げていくのです。

 

その手始めとなったのが、フルタイム4輪駆動システム「クワトロ」

を搭載した、「アウディ・クワトロ」なんですね。

 

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http://car-me.jp/usedcars/articles/4773

 

今は、フォルクスワーゲン社のグループに属していますが、

アウディのファンは、クワトロから始まった人も多くいると

思われますね。

 

WRC(世界ラリー選手権)でも、F1でも有名なモナコ公国。

 

そのモナコのモンテカルロがスタート・ゴールにセットされたのが、

モンテカルロラリーです。

 

1981年からクワトロで参加し、いきなり、ぶっちぎりの走り

を見せて世界を驚かせたのです。

 

リタイアにはなりましたが、6本のSS(スペシャルステージ)

で6分以上の圧倒的強さを見せつけたことは、

当時のラリーファン達に、強大な驚きと感動を与えました。

 

まして当時の4WDは、オフロードの作業用自動車とか、

トラック等の移動用などに多く使われていたのを乗用車に

ということで、ほとんどの人が疑問視していたのです。

 

そんな中でのラリー参戦でしたから、さらに驚かされた

ということなんです。

 

ドライバーのハンヌ・ミッコラの名前は、一気にラリーファンに

知れ渡ることとなりました。

 

そして、イタリア・サンレモで行われた第8戦のサンレモ・ラリーでは、

何とミシェル・ムートンが、WRC史上初の女性優勝者となったのです。

このことも、このクワトロの名を広めることとなったのです。

 

この勢いは次年度からも続いて、WRCでは、打倒クワトロ

みたいな感じまでなって行きました。

 

ですから、このクワトロで、4WDの乗用車利用が広まった

ともいえるのです。

 

とにかく、エンジンの凄さも2133ccのデチューンされ

たエンジンは、DOHCの5気筒ターボ20バルブで

310ps・42.0kg・mというすごいものだったのです。

 

当然、買える物ではなかったのですが、夢にまで出てきましたね。

あの時、宝くじが当たってさえいれば・・・。

 

フェラーリ ディーノは、真のスーパーカーです!

フェラーリは、イタリアのレーシングカーの会社です。

ランボルギーニ社と共にイタリアのスーパーカーを世界に広めた

自動車会社です。

 

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http://jp.autoblog.com/2015/04/12/ferrari-v6-dino-…

 

創始者のエンツォ・フェラーリは、1929年、アロファロメオの

レーシングドライバーから、レース仲間と共に

「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」というチーム

を創設します。

 

その後、レーシングドライバーを引退しチーム運営に専念します。

そして、数々の勝利をチームにもたらしたのです。

 

ところが第二次世界大戦で敗戦国となり、ドイツの占領下におかれ

モータースポーツは禁止ということになったのです。

 

その後しばらくして、1947年に、初めてのレーシング

スポーツカーを製造したのが「125S」という車で、

少数受注生産だったのです。

 

その後、レーシングカー製造から市販車にも力を入れるようになった

のですが「12気筒エンジン以外は、フェラーリと呼ばない。」

という信念を持って世界への道を、着実に歩んでいたのです。

 

そのエンツォ・フェラーリが、

病床の長男(アルフレード・フェラーリ=愛称ディーノ)の

アイデアを受け入れたのが、「フェラーリ・ディーノ206/246」

というわけなのです。

 

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http://www.ag-motoyama.com/archive/ferrari_dino206…

 

F2(フォーミュラーカー)は、2000cc6気筒以下とか、

F1のエンジンは1500cc以下とかの制限があり、とくにF2は、

エンジンの生産台数が何台以上という規定があった(今はない)のです。

 

それをクリアするために、フィアットと組んで台数確保のために造った

車でもあったのですね。

 

ですから、ディーノ206は、普通の車ではないという風に考えた

方が正解で、レースのための車ということだったのです。

 

その後、F2の制限が無くなったことと、ポルシェ911が2.4L

ということもあって、246GTが開発されたのです。

 

ディーノ206の生産台数は、わずか152台ということで、

正規には日本に入っていない。

 

ボディはすべてアルミという軽い(900kg)ということだった

のですが、実際はもっと重く走りもそれほどではなかったという

ことです。

 

そんな、じゃじゃ馬的な存在だった206から受け継いだ246は、

普通の運転技術の方でも楽しく運転できるような、乗りやすく

楽しめる車に変わったのです。

 

カーグラフィックの創始者、小林彰太郎氏は

「ディーノ246ほど、ワインロードを速く安全に走れる車はない。」

と言っているという。

 

ディーノ246は、1973年当時で900万円という価格だったにも

かかわらず、中古でも6~700万円の高値で取引されていたという

ことですから、いかに人気があったかということが分かりますね。

 

ディーノ246は、1968~1974年の間に、3761台生産されました。

流れるようなラインは、本当に美しいです。 

ランボルギーニ ミウラ、「個人教授」でも美しく・・。

そうなんです!ランボルギーニ「ミウラ」です。

 

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http://www.ag-motoyama.com/archive/lamborghini_miu…

 

 今思い出すだけでも懐かしく、想い出があります。

17歳の思春期の真っ盛りのころで、恥ずかしいやら感動やらで、

映画の印象は車だけという、感じでした。

 

黄色いランボルギーニ「ミウラ」だったと覚えていますが、

信号で止まっているミウラの横に、主人公の原チャリバイクが止まる。

 

信号が青になると、同時にもうダッシュでスタートを切るのですが、

また信号で捕まってしまう。

そして隣にまた若者のバイクが止まる。

 

それを2~3回繰り返していると、映画館内でも笑いが出ている。

その車には、お金持ちの紳士が乗っていて止まるごとに、ちら見

を繰り返すところが楽しかったですね。

 

その紳士の彼女との、三角関係のような映画だったのですが、

濡れ場面もあってびっくりしたことを思い出します。

何と言っても17歳ですから、当然彼女と行って・・。

じゃなくて、友達と男二人で行ったのです・・さみしく・・。

 

高校の学校がある町は、一応「市」になっていて、一件だけ映画館

があったのですが、映画を見た後ちょっとして潰れてしまいました。

 

なんでその映画を見たのかというと、「白い恋人たち」という

冬季オリンピックの映画が同時にあって、ジャンクロードキリー?の

スキー3冠を取った時のものだったので見に行ったのです。

 

個人教授ではないですから・・。

って、誰も疑いもしないでしょうが・・;。

 

miura_dsc0080

http://www.carsensor.net/contents/editor/category_…

 

さて、このミウラですが、ランボルギーニというイタリアの

自動車会社で、闘牛牧場のミウラ(闘牛飼育のミウラさんと

いう人の牧場)さんに、ちなんでつけた名前ということです。

 

ミウラは、ミッドシップにV型12気筒という、化け物エンジン

を積んで、350ps(P400)、370ps(P370ps)

385ps(P400SV)という馬力で、300kmのスピード

を出せるという怪物車でした。

 

とにかく綺麗な車で、ベルトーネのデザインもあって、一気に世界に

広まり、100のオーダーが集まったということですから、凄いですね。

ミウラは、最終的に750台が生産されたということです。

 

このミウラの流れるようなスタイルと、1050mmという車高の低さ、

車重量は980kg(P400)という軽さです。

 

世界で、ミウラに勝てる車はないだろうと思えましたね。

 

ところが、それに負けじと頑張ったのが、フェラーリですが、

ランボルギーニ社と20kmしか離れていない所に会社があるという

これもまたすごいですね。

 

競争相手が、見えるところで努力して世界でも有数のスーパーカーの

自動車会社になったということです。すごい、感動です!

サーキットの狼、ロータスヨーロッパ・・!

見ましたか?サーキットの狼。

今日からは、国産から海外のメーカーに目を向けてみたいと思います。

まずは、ロータスヨーロッパです。

 

ヨーロッパ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E…

 

少年ジャンプに、昭和50~54年まで連載された池沢さとしの

「サーキットの狼」に出ていた、風吹裕矢が乗っていた車だった

のですが、私の知り合いも乗っていたので、その良さから

いろいろ思い出して書いてみます。

 

まず、ロータスは、イギリスのスポーツカーメーカー「ロータス・カーズ

で、1966年から1975年まで製造された車で、ロータスセブン

ひき継いで生産されたスーパーカーです。

 

軽量で他のスーパーカーと比べて値段も安く、という目標で開発された

ものということです。

 

シリーズ1という初期の車は、ルノーのエンジン1.5Lのチューン

されたもので、OHVの82馬力のパワーでした。

 

ヨーロッパ S
http://alphawiki.net/gran-turismo5/index.php?%A5%E…

 

このパワーでスーパーカー・・?ということだと思いますが、

車重量がなんとFRPを多く使っているので、610kgという

軽自動車以下の重さしかないのです。

 

それに車高は、1090mmしかないので、空気抵抗は極限に

低くなっているのです。

 

9230台が生産されたのですが、輸出先がフランスということで、

右ハンドルの母国イギリスには、改造された右ハンドルの車がごく

少ない数ですが、販売されたということです。

 

とにかく低い。

 

フォーミュラーの車(FJの運転席しか乗せてもらっていませんが・・)

に乗るような、もぐりこんで乗るという感じで、事故ったらもうアウト

ということですね。

 

1971年には、DOHCのツインカムが登場します。この車は、

フォード製の1.6Lエンジンに変わり、105馬力まで引き上げ

られました。

 

それと、アメリカの安全基準に合わせるためにバーティカルフィン

という後方を見る時に妨げにならないように、切れ下げた形

改善されています。

 

ただエンジンの重さも加わり、711kgという重さになったのです。

さらにまた、1972年には最終型のスペシャルが登場します。

 

スペシャルは、その名の通り、DOHCにビッグバルブという装備で、

インテークバルブの大型化と圧縮比を高めて、126馬力まで

引き上げることになったのです。

 

地面すれすれに走る車なので、やや斜めに寝そべる形で運転して走る

気分は、もうレースそのものです。

 

カーブでの路面の吸い付きもいいし、適度に楽しむというと最高ですね。

 

ただし、彼女を見つけて助手席に乗せる時は、前段にこの車は

こうして乗るから楽しいのだと理解が先になる車です。

 

間違っても突然「乗れよ!」、では「一人でやってろ!」状況に

追い込まれること間違いないでしょう。また、ギアもクラッチ

も硬かった思い出がありますが、それもスーパーカーですね。

コペン・・?どこの車ですか・・?

ダイハツの車です。

スズキと同様で、軽自動車専門メーカーといっても良いくらいに、

国内外で有名ですが、そのダイハツが作ったオープンカーです。

 

1991~1993年には、リーザスパイダーという車があった

のですが、その車はちょっとやっつけ仕事のような車(すみません)

だったのです。

リーザスパイダー
http://www.eris.ais.ne.jp/~t-kondo/vf/gallery.html

 

それは、リーザという乗用車のルーフを切っただけで、それに幌を

付けただけのというような感じで、やはり見た目もバランスも良く

はなかったということです。

 

あまり売れなかった車だったということでした。

 

2002年、その後「コペン」というオープンカーを発売したのです。

名前の由来は「軽オープン」つまり「Kopen」ということだった

のですが、コンパクトカーの意味を取り入れて「Copen」

落ち着いたということです。

 

ブログでもそうですが、名前を付けるというということは大変な作業

なんですね。

 

この「コペン」は、軽では世界初となる、電動で開閉する屋根

アクティブトップ仕様)を持っていたのです。

 

コペン
http://carcast.jp/11561

 

初代のL880K型は、MTとATが販売されていましたが、

価格は同じ設定ということで、ホント珍しいことですね。

 

この車のオーナーの悩みというか、故障として多いのが、

アクティブトップだそうです。

 

自動で開くのは素晴らしいのですが、荷物をトランク

置いてあったりすると、そのままトランクに閉まって

いくので、引っかかって全部が閉まらなく、途中で

止まってしまうことです。

 

こうなると、専門の修理工場に入れないと直せる所があまりない

そうで、デーラーさえも???だそうです。

 

オーナーさんは、気を付けてくださいね。

 

でも、オープンカーの素晴らしさは、今の時期のような春先や

晩秋の季節は、ちょっと寒いけど、風を切って走るバイクの

ような感覚で、ハイウェイや峠の道を走ることですね。

 

ただ、ほこりが車の隙間に入り込むので、掃除が大変なことと

トンネルではいちいち屋根を閉じる動作が大変で、そのまま走る

排ガスの微粒子が顔や洋服にも、ついてしまうことになります。

 

まあそれも、本当はオープンカーの良さなんですけどね。

 

2009年に、特別仕様車の「アルティメットレザーエディション」

という長い名前の車が出ましたが、タイヤがBBSの15インチの

アルミを履いているということことで、昔でいえば、コロナクラスの

普通車のホイールが、13~14インチでしたから、凄いですね。

 

2014年二代目が発表されました。

大きさや重さはほとんど変わりなく、デザインが今風のになりましたね。

それに、外装も脱着が出るというおしゃれな車になりましたよ。

ビートって、音楽ですか・・・

8ビートじゃなくて、これもホンダの車なんです。

軽自動車で、オープンカーで、2シーターという、

 

まさに男の子のおもちゃ状態の車を、いっぱい造って楽しむという、

本田宗一郎さんの夢に向かう気持ちがすごいです。

 

ビート
http://jidoshafan.com/honda-beat.html

 

1991年に発売ということなので、1990年に発売された

NSXと同じミッドシップエンジンという出で立ちなので、

この遊び心は素晴らしいですね。

 

656ccで64psですから、リッター100の馬力を

持っている車でした。

 

ただ車の重量が、760kgあるということで馬力の割

には、ちょっと重かったかなと思います。

 

サスペンションは、4輪独立懸架という足回りに、軽自動車

では初の4輪ディスクブレーキ、SRSエアバックという

ことと前輪が13インチ、後輪が14インチというタイヤを

装備したものだったのです。

 

それから、全高が1175mmというと、

トヨタ2000GTが1160mmなので、いかに低い

スポーツカー設定かということですよね~。

 

bビートhttp://minkara.carview.co.jp/userid/317428/car/213…

 

オプションのカーオーディオは、車速で音量が変わるという

「スカイサウンドシステム」というものも付けられる

楽しみも与えてくれていたのです。

 

ターボではなく、自然吸気(NA)で

64ps/8100rpmというのは、とても凄いことなので、

ピストンのストロークが短いものだったことがわかります。

 

レッドゾーンが、8500rpmということでも、

やはり高回転型の車を目指していたことがわかりますね。

 

ただ、MTのみでAT(オートマ)の設定はなかったのです。

総生産台数33892台という人気車であり、固定された

ファンが多くいたということです。

 

1991年8月5日、残念ながら創業者の本田宗一郎さんが

亡くなられましたが、このビートを最後が送り出した

車ということです。

 

2010年には、「ツインリンクもてぎ」で開催された

オーナーミーティングで、何と569台のオーナーが参加し

パレードランを行ったということで、ギネスに記録された

ということです。

 

1996年1月、軽自動車規格変更などで生産を終了したのです。

 

2015年4月、「S660」が発売されました。

「2シーターオープンスポーツ」と位置付けるもので、

ビートの再来ではないというメーカーコメントだそうですが、

やはり、凄くて楽しい車といえますね。

 

ビートが売り出されたころは、運輸省(現在の国土交通省)が、

NSX等の高性能化を嫌うようになり、スポーツカーという

言葉を使うことが、出来ないようになっていたのです。

 

ですから、街乗りという感じで、高速の走りを楽しむより、

街の中でということですね。

 

え、バモスって車の名前・・?

バモスって車はご存じですか・・?

バモスって車は、本田技研工業の車です。 ご存じですか?

え、知っています?それは凄いですね。

 

バモスhttp://b-cles.jp/car/meisha/honda_vamos_1st.html

 

そうです、1970年代の初めに販売された、軽トラックのオープンカーです。

軽トラックのオープンカーといえば、そんな車を誰が乗るのかな?

という疑問が湧いてくると思いますが、予想通り、

総生産数2500台しか売れなかったのです。

 

レジャーブームで、これはと思って販売したのでしょうが、

その波に乗れなかったという訳です。

 

が、ユニークですよホントに。怒られますが、ちょっとして

リヤカー車のような感じで乗ってはフルオープンなので、

町を走れば、何の車?ということになります。

 

ただ、目立ちましたね。これだけは言えます。

 

オフロード的な車でおもしろいと評判だったのですが、

登坂力やオフロードを走るということで、4WDであれば、

ということは言われていました。

 

そのせいもあって、目標の月産2000台はほど遠く

1973年に生産を終わったのです。

 

bバモス
http://minkara.carview.co.jp/userid/251769/car/144…

 

この車の正式名称は、「バモスホンダ」という車名が先になる

ネーミングで、北米をイメージさせたものということだった。

 

この車も、水平横置きの空冷エンジンで、このバモスがホンダの

軽自動車最後の四輪車という事になったのです。

 

オープンカーですから、幌があって2座席のみのものがバモス2

というそれに4人乗りのバモス4ということです。

 

価格は、バモス2が32万1000円、バモス4が35万1000円、

フルに覆う幌のものが、36万9000円というそれほど高い車では

なかったのです。

 

まあ、オープンカーですからね。

 

この車の面白いところは、車体の前面にタイヤを載せていて、

そのスペアタイヤが衝突の衝撃を吸収してくれるという売り

でもあったらしいです。

 

乗員用のドアがないために、転落防止バーが付いていて、

シートは前後ともベンチシートだったのです。

 

でも、ジープでもがら空きの車に乗ると、風を切って

走るということは気持ちが良いのですが、ちょっと怖いですよ。

 

その形とデザインのおもしろさで、円谷プロダクション

の特撮によく使われたという事も、ウィキに書いてありました。

 

Goonetで探してみましたが、売っていました!

 

あまり見つからなかったのですが、75万円、63万円

なんと、ふるさとの山形でも売っていました。

 

118万円という値段でした。

 

スポーツカー時代に、こんな面白い車もあったということ

を知っていただきました。

86とBRZって兄弟・・?

2012年に発表された車で、愛称は86(ハチロク)という

トヨタの車です。でも、造っているのは富士重工業(スバル)・・?

ということなんですね。

 

86
http://carsearch.ne.jp/modules/weblinks/visit.php?…

 

トヨタ2000GTに似ていると思いませんか?
86は、クレイモデルを造る時に、トヨタ2000GT

を隣に置いて造ったんだそうです。

 

ですから、サイドからのウインドラインや前後の

フェンダー形状等空気抵抗の低減には、やはり

2000GTの流れとなっているのです。

 

これほど低めに流れるように造れるのは、やはり

富士重工業(スバル)の水平対向というエンジン

おかげですね。

なんで86?ということが気になりますね。

 

BRZ

http://jp.autoblog.com/2012/02/03/subaru-brz-unvei…

 

それは、トヨタのカローラレビンとスプリンタートレノが

AE86型ということで、「自分だけの1台を育てる」車

だからなんだそうですが、いろいろ悩んだ末に

エキゾーストのマフラーの直径が86ということで決定した

という?わかったようでなんだかな・・ということですね。

 

以前、トヨタ800(ヨタハチ)のことを取り上げてみましたが、

この開発の原点は、そうです、ヨタハチなんです。

 

当時も、ヨタハチの心臓は水平対向エンジンを積んでおり、

そのポテンシャルの良さと車高の低さを工夫して、

さらにデザインは2000GTですからもう最高ということです。

 

最初の発売はというと、スバルのBRZ

(ボクサーエンジン・リアドライヴ・究極のZ)の方が10日早く

発売になっているのですね。

 

月間販売目標の7倍にもなって、若い人だけでなく、年配の人も

乗っているという幅広い支持を受けているということです。

 

心配なお値段の方はというと、199万円からLimitedの

305万円までとなっているようです。

 

あのスタイルとあの走りでの値段としては、皆さんどうですか?

高いですか?

 

英語圏では、86+BRZと合わせて、

toyobaruと呼ばれているそうですが、公式ではないそうです。

 

なぜトヨタが開発に賛同したのか・・?

それは、社内の会議で深刻な若者の車離れがテーマに上がった

からだという。

 

そうですね。先日の発表では、58%?とかいう数字で、

私たちの頃は、女性にもてる要素はまずギターを弾くとか、

カッコいい車に乗っているということが必須条件のように

なっていたので、もう借金しても買うということを

やっていましたね。

 

今思えばどうかなと・・。お前だけだろう・・。

っていやそうでもないですよ。

 

今の若い人では、考えられないようなことだと思いますね。

アイツより俺の方が、みたいな競争心もあって、また、バブル

という経済の流れに乗ってしまったということかもしれません。

 

また話がそれました。

 

さてその86についてですが、FA20型2.0Lのエンジンで、

リッター100psの200psというもので、6速MTと

6速ATもあるということです。

どうですか、乗ってみたいですね~。

チェリーというじゃじゃ馬がいました・・。

「チェリー」は日産自動車の車ですが、元々は、
プリンス自動車工業の開発車で、次世代の前輪駆動の車でした。

 

チェリー

http://vintage-car.net/2015/07/30/nissan-cherry-x1…

 

プリンス自動車をウィキで調べてみますと、

プリンス自動車は、1966年8月に日産自動車に吸収合併されたのですが、

グロリア・スカイラインやホーミーなどの車が、日産に引き継がれています。

 

プリンスは、立川飛行機の社員だった外山氏、田中氏らの技術者によって

東京電気自動車からのスタートということででした。

 

1951年からガソリン自動車開発に転身し、石橋正二郎(ブリジストン)

の支援があって、中島飛行機系の富士精密工業との合併とかいろいろな遍歴を

経てプリンスとなり、そして日産に吸収されるまで、苦労が多かった会社

といえますね。

 

日産自動車との吸収合併時は、石橋氏が代表取締役会長となっています。

 

その日産自動車の、初の前輪駆動車(FF)となったのがチェリー

という車のです。

 

第二次世界大戦の敗戦後、7年間の飛行機製造が禁じられ

その12年後に、YS-11が初飛行となるのですが、

また10年後に生産を終了してからは、その後は造られてはいません。

 

飛行機を造っていた技術者の人たちは、その技術を生かすためにも、

自動車という世界に入る選択肢が、多かったのでしょうね。

 

最近ようやく、三菱航空機MRJを開発後、7年を経て去年、

初飛行を行いました。

 

あ、すみません、また話がそれました。

ついでに、これも余談ですが、「プリンス自動車」は、皇室の御料車

として試作を重ね、日産との合併後、「ニッサンプリンスロイヤル」

の名前で宮内庁に納車していました。

 

ということで、雑談は終了しましょう。

 

チェリー」は、1970年(個性ある車の絶頂期の時期です。)に、

東京モーターショーで発表され、A10型、A12型エンジン

(以前書きましたサニーGX5のエンジン)を載せた、

サニークラスの一ランク下げた車のとして、開発をされて

いたのです。ターゲットは、初めて車を持つ若者ということで

販売されました。

 

エンジンは前述した通り、A12型と1000ccのA10型という

小さ目な車だったのです。ところが、車の重量が670kg

軽自動車に匹敵するような軽さです。

 

A12型のエンジンは80ps以上の馬力を持っていたので、

その辺の車では太刀打ちできない速さを持っていました。

 

速い車を作るには、確かにエンジンが強力で、回るエンジンの

車でないと話になりませんが、1.2tもある車と0.6tの

車では、もの凄い差が出てきます。

 

カーブでも、その半径の大きさによって違いますが、重いと

遠心力が強く、タイヤが車を抑えきれません。

 

ですから、そのバランスがうまいのはベンツのような

ドイツ車ですね。車を売るためにはどうするか?

ドイツ車とわかるようにするにはどうするか?

 

ということになって、ドイツにしかないものにするには、

資質を極度に高め、バランスのとれた高くても売れる

世界一安全な車と創るということに徹底したのです。

 

それが、ベンツでありBMWでありアウディでもあるのですが、

残念ながらワーゲンは、信用を失うことをしてしまいましたね。

また話がそれてしまいました。

 

そのA12型エンジンを載せた「セミファストバック」の車は、

オーバーフェンダーを付けた走り屋になって、1973年に

発表されました。

 

それが、「チェリー1200X-1・R」です。

 

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http://tosdotti.exblog.jp/4999972/

 

FF車は、カーブでは内側に切り込むようになる

オーバーステア)ので、FRの車に乗っていた方は

注意が必要です。

 

ちょっとシフトの遊び(日産系に多かった?)が出ていた車に乗ったので、

それがちょっと気になりましたが・・。

乗っては楽しい車でしたね。

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